佐和山城主だった石田三成の生涯を追いながら、石田三成ゆかりの地をまとめてみました。
石田三成は、永禄3年(1560年)に近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)に生まれました。
子どもの時(幼名:佐吉)に大原観音寺(滋賀県米原市)にて羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に出会います。三献の茶と呼ばれている三成の茶の出し方の工夫に感動した秀吉は、そのまま長浜城へ連れて帰り家来とし加えました。
長浜城では、三成は、父・正継、・正澄とともに秀吉に仕官し、三成は秀吉の小姓として仕えました。
織田信長が亡くなる本能寺の変(天正12年(1582年))の頃には、三成は青年になっていて、秀吉の中国攻めにも従軍していました。本能寺の変によって、秀吉が台頭し始めると、三成も側近として台頭しゆきます。翌年の天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市木之本町)では、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当したり、先駈衆として一番槍の功名をあげたりと活躍しました(『一柳家記』)。吏僚としての活躍が有名な三成の功績としては珍しい、戦場の前線での活躍ですね。
秀吉が天下人になるにつれて、三成は、日本各地を転々としています。その中の功績の一つが、検地奉行で近江国蒲生郡、美濃国、奥州など各地で検地を行っています。また、秀吉の九州平定(1587年)が成功したのは、莫大な軍事機能を支えるめ、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達の功績あったからです。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣し、秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられ、忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めを行い、その際の遺構が石田堤として周囲に現存しています。文禄元年(1592年)からの文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務めています。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしました。
このように忙しく活躍する中、文禄4年(1595年)に、畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられて、佐和山城主となりました。翌年にの慶長元年(1596年)には、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出しています。
しかし、佐和山城主として佐和山にゆっくりとどまることは出来ず、同年には、明の講和使節を接待、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられれました(ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人))。慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍しました。と次から次へと大忙しの三成で奉行として伏見城に滞在することが多く、佐和山城は実際は父正継が任されていました。
執筆中
以下、彦根周辺の石田三成ゆかりの地を、地図にまとめてみました。
※対象スポットを全て表示させようとした結果、重なって表示されている場所があります。ご覧になりたい場所を、拡大してご覧下さい。
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