蛭子(ひるこ)神社に残る『世継縁起之叟(よつぎえんぎのこと)』によると、蛭子神社がかつて「世継神社」と呼ばれていた頃の話となります。
蛭子神社の祭神は雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)。
5世紀後半のころ、雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)は、米原を流れる『天野川(あまのがわ)』を境にそれぞれ仏道に励んでいました。
川を隔ててはいましたが、気持ちは通じ合い2人は程なく恋に落ちてしまいます。
しかし、星河皇子の姉が朝嬬皇女の父である仁賢天皇の皇后でありことから系譜の上では叔父と姪の関係にある2人、その上、2人は修行の身、このようなことから、2人はみだりに会うこともままならないという悲しい状況におかれ、その想いは叶わぬ恋となりました。
世間一般によく知られている七夕のお話の「恋にうつつを抜かし天帝の怒りをかった牽牛と織女」に比べ、「恋を糧に修行に励む星河稚宮皇子と朝嬬皇女の生き方」は素敵ですが、なんとも切ない恋ですね。
その後、平安時代初期に奈良興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)がこの地に伽藍を建てる際に、この2人のことを知り、皇子を牽牛に皇女を織女に見立てて、合祀したと言われています。また、彦星塚を星川稚宮皇子の墓、七夕石を朝嬬皇女の墓とする言い伝えもあり、天野川という川の名前などもあって、この地に七夕伝説が生まれした。
『世継縁起之叟(よつぎえんぎのこと)』には、「7月1日から7日間、男子は七夕塚に、女子は彦星塚に、いにしえの習いに従い祈念すべし~。」、そして「7日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び、合わせて川に流すと・・・二人は結ばれる・・・。」とも記されているそうです。
今でも、この純粋な2人の気持ちにあやかろうと、七夕石(朝嬬皇女の墓)に男性が、そして彦星石(星河皇子の墓)に女性がお参りする人がたくさんいらっしゃるようです。いわば、恋愛成就の隠れパワースポットとでも言うべきでしょうか・・・。
読んで頂いているあなたも、お参りに行くのはいかがでしょう?!あ、でも旧暦(新暦8月ごろ)ですよ・・・間違わないように!!(笑)
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